1.はじめに
本記事では、1932年のロサンゼルスオリンピックのグランプリ個人大障害飛越競技で金メダルを獲得したバロン西選手と愛馬ウラヌスの競技当日の状況と彼らの走行を紹介します。
2.競技当日の状況
グランプリ個人大障害飛越競技は、閉会式当日のメインスタジアムで繰り広げられました。
その日、オリンピック最後の競技を観戦するために、10万5000人の観客がメインスタジアムに詰めかけました。
コースは全長1050mの中に大小19の障害物、柵や水濠が並べられ、最も高い障害は約1.6m という屈指の難易度の配置がされていました。
メキシコ、スウェーデン、メキシコ、日本の4カ国から計12人の選手がエントリーし、午後2時30分に競技がスタートしました。
最初に登場したのはメキシコのボカネグラ大尉で、彼は失格となりました。
続いてアメリカのウォフォード中尉も失格となりました。
そして、日本の今村安少佐も失格となりました。
スウェーデンのフォン・ローゼン中尉は減点16でゴールしました。
メキシコのメジャ少佐は失格となり、アメリカのブラッドフォード大尉は24点の減点でゴールしました。
日本の吉田重友少佐は棄権しました。
スウェーデンのフランケー中尉も失格となり、メキシコのオルチッツ大尉も失格となりました。
アメリカの監督チェンバレン少佐は12点の減点を受けました。
コースは非常に厳しく、多くの選手が失格となり、完走できたのはわずか4人だけでした。
金メダルの本命はアメリカのチェンバレン少佐で、チェンバレン少佐が12点の減点で暫定1位となっていました。
競技も終盤で残る選手はスウェーデンのハルベルグ大尉と日本の西中尉の2人だけでした。
そして、ついに11番として登場するのは西中尉(以下「バロン西選手」という。)でした。
3.バロン西選手と愛馬ウラヌスの走行
バロン西選手とウラヌスがスタートしました。
彼らは第1障害を見事に飛越し、第5障害まで順調に進みました。
しかし、次の第6障害である幅5mの水濠で、ウラヌスは後肢をわずかに着水してしまいました。
それでも、第8障害である各国の選手が落馬するバンケットをうまくクリアし、会場は歓声に包まれました。
しかし、第10障害で、ウラヌスがユーカリの枝を積み重ねた横木に驚いて立ち止まってしまいました。
会場はどよめきが起こったものの、バロン西選手は素早くウラヌスを反転させ、再び障害に挑戦しました。
今度は高く飛び越え、見事に成功しました。
彼らは残りの障害をすべて飛越し、ゴールまで駈け抜けました。
ゴールした瞬間、観客席は立ち上がり、スタンディングオベーションで迎えました。
バロン西選手の減点は8点でした。
最後に登場した12番のスウェーデンのハルベルグ大尉は50点の減点を受けました。
完走したのは、11人の選手の中でわずか5人だけでした。
そして、会場に響くアナウンスでバロン西選手が愛馬ウラヌスに騎乗して優勝したことが伝えられました。
バロン西選手とウラヌスの勝利は、アメリカ人の対日感情を和らげたとも言われてます。
※バロン西選手とウラヌスの走行の映像については、以下のYouTubeをご覧ください。
4.おわりに
優勝の記者会見で、バロン西選手は
「We Won! (我々が勝ったのだ!)」
という言葉を使っています。
スマートで社交的、英語の堪能で天真爛漫なバロン西選手は、アメリカからも愛される存在でした。
金メダルを獲得したバロン西選手は、ロサンゼルス市長から名誉市民の称号を受けてます。
なお、「日本人唯一の馬術障害金メダリスト、バロン西と愛馬ウラヌスの紹介」につきましては、以下の記事にて詳細を記載しておりますので、ご興味をお持ちいただけましたら合わせてご覧ください。
【参考文献】馬術情報誌 No.601 2012年2月「西とウラヌス~西竹一大佐伝~ 第5回」
馬術情報誌 No.602 2012年3月「西とウラヌス~西竹一大佐伝~ 第6回」
乗馬ライフ 2008年3月号「日本で唯一のオリンピックで優勝した馬 ウラヌス」
ウィキペディア 西竹一 西竹一 – Wikipedia