1.はじめに
この記事では、日本人唯一の馬術障害金メダリストであるバロン西選手と彼の愛馬ウラヌスに焦点を当て、その感動的な物語を紹介します。
バロン西選手の生涯とウラヌスとの特別な絆は、多くの人々に勇気と感銘を与えました。
記事では、バロン西選手の幼少期から軍人への道、乗馬との出会い、そしてバロン西選手のエピソードに触れながら、バロン西選手がいかにして馬術界での栄光を勝ち取ったのかをたどります。また、愛馬ウラヌスの特徴や飛越時の癖についても紹介します。
さらに、バロン西選手とウラヌスが1932年のロサンゼルスオリンピックでのグランプリ個人大障害飛越競技での輝かしい勝利や、ベルリンオリンピック以降の彼らの舞台裏にも触れます。
そして、硫黄島の戦いにおけるバロン西選手の運命的な転機やウラヌスとの再会、そして彼の最期についても追います。
2.バロン西選手
2.1 幼少期
1902年7月12日、東京麻布で男爵かつ外交官である父のもとに、三男として生まれました。西選手の名前である武一は、まっすぐ健やかに成長することを願い、竹のイメージを込めて命名されました。
幼い頃の西選手は、元気いっぱいでいたずら好きな少年でした。
父の徳二郎は外交官であり、また中国の西太后からの信頼を得て、中国茶の専売権を持つなどして巨大な富を築きました。徳次郎は西選手が10歳の時に亡くなってしまいます。徳二郎は生涯を通じて外交の功績が認められ、爵位である「男爵」や様々な勲章を授与されていました。
長兄と次兄は早くに亡くなったため、西選手は三男として父の遺産をすべて相続することになりました。
また、
西選手は爵位も継承し、実際にバロン(男爵)
となりました。
西選手が13歳のときに、母も亡くなりました。その後、親戚の叔父が後見人となり、西選手の世話をしました。
2.2 軍人へ
西選手は父親と同じく外交官を目指していましたが、学習院初等科を卒業し府立一中に入学した後、学習院の院長である乃木希典の「華族の子弟は、なるべく軍人を志せ」という教えに影響を受け、外交官とは異なる道である「軍人」への道を選びました。
1917年、西選手は府立一中に在籍中に広島陸軍地方幼年学校に転籍し、軍人としての道を進むことになりました。この転籍により、西選手は軍人の道に真剣に取り組むこととなりました。
2.3 乗馬との出会い
西選手は幼少期の3年生の時に乗馬との出会いを経験しました。この経験が後に西選手の人生に大きな影響を与えることとなります。
1920年、西選手は新設された陸軍士官学校予科の第36期生として入学しました。西選手はこの学校で将校としての教育を受けることになります。
1922年、陸軍士官学校予科を卒業する際、西選手は「歩・工・砲・騎」という中から「騎兵」という兵科を希望しました。西選手は騎兵としての道を進むことを選びました。
騎兵での訓練を本格的に行うため、西選手は「馬の神様」として知られる馬術家の遊佐幸平氏から馬術の指導を受けることになりました。遊佐氏は優れた馬術の技術を持ち、西選手は遊佐氏から貴重な知識と技術を学ぶことができました。
1924年、陸軍士官学校の本科を卒業した西選手は、見習士官として原隊の騎兵第一連隊に配属されました。同年10月には、彼は陸軍騎兵少尉として任官されました。これにより、西選手は正式な軍人としての地位を得ることができました。
このようにして、西選手は幼少期からの乗馬の経験を基に、陸軍士官学校での教育と馬術の訓練を通じて、騎兵としての道を歩んでいくこととなりました。
2.4 西選手のエピソード(1)
この写真は、西選手が福東という馬を調教し、自身の愛車であるクライスラーの上を飛び越える瞬間を捉えたものです。
このパフォーマンスは非常に危険であり、正確な計算と高い技術が求められます。もし一歩間違えた場合、馬や西選手、そして車に大きな危険が及ぶ可能性があります。この写真は、西選手の勇気と訓練の成果、そして馬との信頼関係を示しています。
※このような危険な行為は専門的な訓練や安全対策が必要です。一般の人々には真似をすることは危険です。
2.5 西選手のエピソード(2)
この写真は、バロン西選手が陸軍騎兵学校の学生時代に、アイリッシュ・ボーイという馬に騎乗している様子を捉えたものです。
この写真の特筆すべき点は、バロン西選手が2メートル10センチという驚異的な高さの障害を飛び越えた瞬間です。
2.6 ウラヌスとの出会い
騎兵第一連隊に所属していた西選手は、乗馬技術をさらに磨いていきました。1928年3月、第10回ロサンゼルスオリンピックに向けた馬術の候補選手が選ばれ、西選手もその中に含まれました。
候補選手となった西選手は、世界的な有名選手と同等のレベルで戦える馬を探していました。そんな中、イタリアで留学中の騎兵学校の教官から、クセの強いが非常に優れた馬がいるという連絡が入りました。
西選手はその情報に興奮し、すぐに半年間の休暇を取得して、アメリカとイタリアへと旅立ち、イタリアでウラヌスという馬を購入しました。ウラヌスはフランスで産まれた「アングロノルマン」種のセン馬で、血統は不明でしたが、非常に大きな馬で体高は181㎝でした。
ウラヌスとの出会いから数日後、西選手はローマで開催された大会にウラヌスと出場し、驚くべき入賞を果たします。この入賞によって、西選手の名前はローマでもすぐに評判になりました。
最初の頃、ウラヌスは踏切りが近く、西選手は調教に取り組み、ウラヌスの踏切りを改善し、調子を上げていきました。
その後、西選手とウラヌスは5ヶ月間にわたり、欧州各国の数ヶ所で国際競技に出場し、入賞を重ねました。この活躍により、「バロン西」という名前はヨーロッパでも有名になりました。
ヨーロッパで実力を高めた西選手は、ウラヌスとともに日本へ帰国しました。
彼の成績とウラヌスとの信頼関係は、日本でも注目されることとなりました。
3.ウラヌス
3.1 ウラヌスの特徴
以下に、ウラヌスの特徴をまとめてみました。
項目 | 内容 |
1919年? – 1945年3月28日 | |
産地 | フランス |
性別 | セン(去勢馬) |
毛色 | 栃栗毛 |
頭の白斑 | 白い星 |
種類 | アングロノルマン種 ※父母は記録にないため血統は不明 |
体高 | 181㎝ |
名前の由来 | 天王星 ※額に星印があったことから天王星の名をとりました |
元の所有者 | ローマの騎兵中尉 |
性格 | 気性が荒い ※西選手以外は誰も乗りこなせなかったといわれます |
主な成績 | 1932年第10回ロサンゼルスオリンピック グランプリ個人大障害飛越競技 優勝 |
3.2 ウラヌスの飛越時の癖
ウラヌスは障害物のバーを越える際に、通常の馬とは異なる飛び方をします。通常の馬は飛ぶときに前脚を曲げて引っかからないように飛び越えますが、ウラヌスは前脚を突っ張った状態で飛び越えようとします。
この飛び方には危険性があります。もしウラヌスが障害のバーに引っかかってしまった場合、転倒してしまい、馬や騎手の命が危険にさらされる可能性があります。
しかし、西選手は特別なスキルを持っており、柔道や剣道で有段者であり、騎乗するための理想的な体型をしていました。彼は身長(175㎝)もあり、長い脚と大きな腰幅、そして強い脚力を持っていたのです。また、西選手は豪快な性格を持っており、恐れることなく困難に立ち向かうことができました。
そのため、西選手はウラヌスと一緒に障害を飛越することに挑みました。西選手はウラヌスの特異な飛び方に臆せず、しっかりと乗りこなすことができました。
4.1932年第10回ロサンゼルスオリンピック グランプリ個人大障害飛越競技
1932年のロサンゼルスオリンピックのグランプリ個人大障害飛越競技で金メダルを獲得したバロン西選手と愛馬ウラヌスの競技当日の状況と彼らの走行については、以下の記事にて詳細を記載しておりますので、ご興味をお持ちいただけましたら合わせてご覧ください。
5.ベルリンオリンピックとその後
西選手はベルリンオリンピックの馬術競技に再び選ばれ、ウラヌスとアスコットに乗って出場しました。しかし、ウラヌスとの障害飛越競技で落馬し棄権し、アスコットも12位に終わりました。
これにより、ロサンゼルスでの好成績に対する期待に反して周囲から失望されました。落馬に関しては、「日独防共協定の影響でドイツに花を持たせるためにわざと落馬したのではないか?」というデマまで広まりました。軍部もロサンゼルスでの活躍があったため一定程度容認していましたが、次第に風当たりが強くなりました。
それが現れたのは満州の第1師団騎兵第一連隊への異動でした。西選手は1939年3月から軍用馬を育てる旧陸軍省の軍馬補充十勝支部で騎兵少佐として勤務しましたが、従来の華やかさに比べると地味な仕事でした。
※一般の人々は、西選手とウラヌスの功績をあまり讃えることはありませんでした。しかし、専門家の間では異なります。彼らはウラヌスが17歳という高齢にもかかわらず優れた飛越能力と、そのウラヌスを巧に扶助する西選手の技術について高く評価していました。彼らはロサンゼルス大会の成績に引けを取らない立派な成果であると認めていました。
6.硫黄島の戦い
6.1 硫黄島への転身命令
1944年6月、戦況の悪化により、西竹一大佐が所属する戦車第26連隊には硫黄島への転身命令が下りました。
当時、ドイツ軍の戦車を中心とした電撃戦の成功を目の当たりにした日本軍は、これに倣って「機甲部隊」を設立しました。この流れの中で、騎兵は歩兵科と統合され、「機甲兵」となりました。西大佐はもともと車のようなマシンが好きで、戦車に対する嫌悪感はありませんでした。
彼は1943年に陸軍中佐に昇進し、翌年には戦車第26連隊の連隊長となりました。そして、1944年6月には硫黄島への転身命令が下り、西大佐と西大佐の部隊は硫黄島の防衛の任務を担うこととなりました。
6.2 ウラヌスとの再会
西大佐は硫黄島を一度離れ、内地に帰国しました。そこで彼は馬事公苑で余生を過ごしている愛馬ウラヌスに再会しました。
ウラヌスは25歳で、人間の年齢で言えば70歳を超える高齢でしたが、しっかりと西大佐の足音を覚えていました。ウラヌスは足音を聞くと大喜びし、甘噛みやじゃれつきなどで最大の愛情を示しました。西大佐は自分の運命を悟ったかのように、別れ際にウラヌスのたてがみを切り取り、再び硫黄島に戻ります。
硫黄島に戻った西大佐は、使う予定のない拍車やムチを持ち、ポケットにはウラヌスのたてがみを忍ばせ、エルメスの乗馬靴を履いて地形を確認するために歩き回った
といわれます。
6.3 バロン西選手の最後
1945年2月19日、アメリカ軍が大軍を率いて硫黄島に攻め寄せました。日本軍の数は約2万人で対するアメリカ軍は約16万人と、圧倒的な兵力差がありました。アメリカ軍は硫黄島の占領を5日で終わらせると豪語しましたが、日本軍は地下坑道を使って堅固な要塞化を図り、アメリカ軍を苦しめました。
しかし、兵力差は埋まらず、日本軍の敗北が濃厚となっていきました。この時、アメリカ軍はバロン西選手が硫黄島にいることを知り、彼に対して降伏を呼びかけました。
「オリンピックの英雄バロン西、出てきなさい。あなたは立派な軍人として責任を果たしました。ここであなたを失うのは惜しい。降伏は恥ではありません。我々はあなたを尊敬して迎えます。」
しかし、西大佐は一言も答えることなくいました。
そして3月17日、硫黄島からの連絡が途絶え、西大佐の最期はこの日付近であったと言われています。享年42歳であり、若すぎる英雄の死となりました。
7.戦いを終えて
西選手は、戦車の部隊長として戦闘に参加していましたが、もともとは騎兵であり、馬を愛していたと伝えられています。西選手は戦死する直前に部下に対して、
「最後まで馬を愛することから長靴に拍車をつけて死ぬ」
と言ったといわれています。
また、
ウラヌスは西選手にとって特別な存在であり、ウラヌスのたてがみを戦争中もいつも肌身離さず持ち歩いていた
とされています。
西選手は1945年に42歳で戦死しました。その後、7日後にウラヌスも亡くなりました。
ウラヌスは東京世田谷の馬事公苑の厩舎で老衰のため亡くなりました。しかし、ウラヌスの埋葬された獣医学校は米軍の直撃弾を受け、遺骨は散乱してしまったとされています。
戦後、西選手が身につけていたウラヌスのたてがみはアメリカで発見され、北海道の十勝本別町歴史民俗資料館に遺品として収められました。
また、西選手が使用していた鞭や写真は、1964年の東京オリンピックの年にロサンゼルスの博物館に展示されていましたが、2021年7月の東京オリンピックを前に、それらの品は西選手のひ孫にあたる家族に返還されました。
8.おわりに
この記事を通じて、バロン西選手とウラヌスの偉大な功績と絆に触れ、彼らが日本人に与えた影響を共有できれば幸いです。
彼らの勇気や困難を乗り越える力は、私たちに勇気を与え、夢を追い求める励みとなるでしょう。彼らの物語は、永遠に私たちの心刻まれるでしょう。
最後に、帝国陸軍西竹一大佐であったバロン西選手と、硫黄島守備隊の方々のご冥福を心からお祈りいたします。
現在、バロン西選手の亡くなったとされる場所には「西大佐の碑」が建てられており、そこには
「硫黄島 散りて散らせね もののふの 心の櫻 咲にほう島」
と刻まれています。
【参考文献】
・馬術情報誌 No.597 2011年10月「西とウラヌス~西竹一大佐伝~ 第1回」~
馬術情報誌 No.608 2012年9月「西とウラヌス~西竹一大佐伝~ 第12回」
・乗馬ライフ 2008年3月号「日本で唯一のオリンピックで優勝した馬 ウラヌス」
・ウィキペディア 西竹一 西竹一 – Wikipedia